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景気対策って必要? [市場と経済]

雑感の連投です。

昨日は「雇用」が変革の原動力になるんじゃないかと書きましたが、変革、というか、根っから考え方変えた方が良いんじゃないかと思っているものに、景気対策、というのがあります。景気が悪くなると、金利を下げたり公共事業を起こしたりして、経済にお金が回るように仕向けます。お金が回ったところに経済活動が起き、そこでまた価値が生み出されて豊かさが回復する、ということになるわけです。政策はきっかけを与えたり資金的にバックアップしたりする、それによって「ビジネスを援ける」のが景気対策です。

ビジネスは資本主義のルールで回っています。だから景気対策も、基本的に資本主義のルールに則っています。この資本主義というものの性格についてここ何十年の経験から分かったことは、放っておくと際限なく格差が広がる、ということではなかったかと思うのです。ちょっと前のピケティ・ブームはそういうことだったでしょう?

それは景気対策を打つに際しても同じではないでしょうか。金融を緩めれば弱い経済主体も助かりますが、それ以上に強いものがメリットを享受している可能性は高いと思います。特に過去20余年の日本をみれば、金利が低くても安全なところへより多くのお金が流れていたとしても、驚くにはあたりません。これを繰り返していれば、強いものがより強くなるでしょう。

また景気対策というものは、景気の下振れをなくそうというのが基本の発想でしょうが、そうするとじり貧のビジネスでも、じっと我慢していると乗り切れてしまうことになります。稼働しない資産でも、稼働しないまま生き延びてしまいます。バブルの教訓と言えば聞こえはいいけれど、資産の価格が下がることに対する警戒感があまりにも強ければ、新規に参入するものは資産を手に入れるチャンスに巡り合えません。

景気が悪くなる時は悪くなるに任せ、資産を持つ経済主体が「もう耐えられない」と言って資産を手放す、という状態が起きる方がむしろ健全なのではないでしょうか。そうやって、「持てる者」から「持たざる新規参入者」へ資産が渡っていくことが、経済を成長させるのではないでしょうか。

政策の出番はビジネスの後ろ盾ではなく、景気の悪化で零れ落ちる弱者の救済に徹するのがよいように思います。景気対策というより福祉政策です。景気対策は要らぬ、などというと世間には必ず、家業が潰れて首を吊る人間が出てもいいのか、というような反応をする人がいます。でも、弱者は結局弱者です。そうであれば、直接困っているところに援助が届くようにして、格差ができるだけ広がらないようにした方が良いのではありませんか。

資本主義は優れたシステムですが、その弱点がはっきりしてきている以上、それを克服する努力をした方がよいと思うのです。ビジネスを援けるのは「産業政策」として、産業の将来性まで合わせて考慮しながらやればよいことです。

政治力学を考えれば、こんな主張が通るとはとても思えませんが、政策にかかわる人たちには、公的な資金を非効率にばらまいて経済格差を拡大することに貢献しているのかもしれない、という発想を少しでも持ってほしいと思う次第です。

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平成を振り返ってみる [市場と経済]

世の中こぞって「平成振り返りモード」なので、私もやってみようと思います。

私は昭和の末期に就職したので平成時代は社会人としてフルに経験しているわけですが、平成を簡潔に表現すれば「平和と停滞」でしょうか。大災害の類は少なくありませんでしたが、それによって社会が揺らいだ、それで社会がひっくり返った、ということは起きませんでした。

一方社会・経済が停滞したのも事実です。アベノミクス以降「女性活躍、云々」という文言が頻繁に聞かれるようになりましたけれども、これこそ停滞の象徴です。私はいわゆる総合職採用で就職しましたが、その直後に男女雇用均等法が制定され、社会全体も女性を採用しようという方向に向かっていました。ですから、昨今の「女性活躍~」には既視感を覚えます。30年かけて、まるで何も変わっていないかのようです。

昭和のバブルが崩壊して経済はじり貧になっていきましたけれども、いわゆる「ゆでガエル」の状態で、危機の進行を肌で感じることができませんでした。毎日平和に暮らしていると、変革しようという気運はなかなか生まれません。変革には大きなエネルギーが必要ですから、多くの賛同を得なければ動かないのです。何もしなくても平和なのに、どうして動かなくちゃいけないのか、という状態が続いたのが平成という時代だったと思います。

数字を見ても、経済が停滞していたことはよくわかります。名目GDPは1990年代の初めから2015年ごろまで、完全に横ばいです。経済統計ではよく「実質GDP」が使われますが、物価が下がっているせいで生活水準が上がった、などと喜んでいるわけには行きません。名目GDPが上がっていないということは、日本経済につけられた値段が上がっていないということと同じです。この間、株式市場がパッとしないのも当然ですね。

アベノミクス以降、名目値で見る経済は少し上を目指し始めたように見えます。株価指数も同様です。だからと言って、この先も上向いていると信じる理由は特にありません。日本人は日本の経済力に自信を失っているし、与えられた条件が成長を後押しするわけでもありません。平成が令和になったからと言って、平和な世情が覆されるわけではありませんが、経済や社会に変革を迫る要因があるとすれば、急激に進む労働力不足がその役割を果たすのではないかと思います。

「女性の活躍、云々」に話題を戻せば、30年前は景気が良かったわけで、雇用を増やしたいという経済的ニーズがあったからこそ、雇用機会均等法もそれなりに受け入れられたのでしょう。ですから、経済の停滞で雇用が余剰になってしまったことと、30年を経て同じような「女性活躍」推進を未だにやっていることとは、無関係ではないはずです。

今後絶対的な労働力の不足で、女性の、というだけでなく、雇用慣行が大きく変わっていく可能性はあると思います。当たり前のように語られる「終身雇用制」も、元をたどれば戦後の高度成長で、長期間働く安定した労働力を必要としたから定着した制度でした。同じ雇用慣行が、この先も続いていくのはむしろ不自然ではないでしょうか。不自然を続けているせいで、正規・非正規のような労働市場の歪みも深刻化するのです。
 
ただ、変革には多大なエネルギーを要します。それが上手く進むために必要なのは、成長する企業だと思っています。それが新しい、若い企業であれば、より良いですね。新しい会社が雇用の在り方も変えていく・・・そして雇用の変革がまた起業を増やす。そんな好循環に入れればいいのですが。

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貿易戦争?どのていど悲観すればいいのか [市場と経済]

世界的に株式市場は、年明け以来何となく順調に戻して来ています。米中貿易戦争か、すわ一大事、とばかりに年末辺りは急落したものの、悲観のし過ぎを反省しているかたちです。何ごとも行き過ぎはいけませんが、景気の勢いも企業収益も下降気味で、やはり今のところ、あまり投資環境が明るいとは思えません。米中貿易戦争であるとか、冷戦の再来であるとか、今の時点ではそういった表現は大袈裟に過ぎるでしょうが、ベルリンの壁崩壊以来ひたすら進展してきたグローバリゼーションの流れに転機が訪れている、というのは大方の認めるところではないでしょうか。

信頼のなかったところに信頼が築かれ、物もお金も容易に東西の壁を超えるようになった90年代。それは中国の急成長を援け、一方世界は大いにその恩恵を受けたわけです。信用のあるなしがそのまま金利に現れるように、ビジネスというものは、信用があるかないかでかかるコストが大きく違ってくるものです。社会主義に覆われていた経済圏が資本主義を受け入れ、過去には信用できなかった相手が信用できるようになったことのインパクトは計り知れないものがあったに違いありません。

90年代は、株式市場も世界的に大幅な上昇を記録しました。主要市場でここに加われなかったのは、バブルの後始末に追われていた日本だけでしょう。2000年代に入ると中国はWTOに加わり、将来は資本主義・自由主義経済の仲間同士となるのが自然の成り行きのように思えました。だから中国は基本的に信頼できる相手という前提で、90年代以降の経済は進展してきたはずです。しかし今やその前提は崩れ、信用は所与のものではなくなってしまったようです。

貿易交渉が順調に進展すれば、行き過ぎが修正されたり緊張緩和が図られたりして、ビジネスの条件は改善するでしょう。しかし、歴史の流れが再び向きを変えるということにはならないのだと思います。過去のようなグローバリゼーションの進展は、もう見られないのかもしれません。それを誰もが感じるようになったのは、多分アメリカの大統領がトランプ氏に替わったころからでしょう。しかし実は、リーマンショック辺りを機に変化は既に始まっていた、という記事を、先月の英エコノミスト誌で見ました。(1月26日号「Slowbalization」)

それによると、GDP比で見た貿易額や国境をまたぐ投資額・融資額は2008年に頭打ちとなっています。急激に伸びてきた中間財の輸入額、多国籍企業が海外で稼ぐ収益などもそうです。それまで企業が構築してきた国際的なサプライチェーンの活動は、2008年までにピークアウトしていたということでしょう。人々の往来や小包のやり取りは伸び続けているということですから、国境をこえた個人の消費行動は、まだ勢いがあるようです。

株式市場を振り返ってみると、日本以外ほとんどの市場が上昇した90年代に対し、2000年以降、特にリーマンショック以降のパフォーマンスは、ネット世界のリーディング企業を擁する米国と、統合されたユーロの恩恵を一身に集めた形となったドイツが突出して見えます。リーマンショック前のピークをしっかり超えているという意味では日本も健闘してはいますね。

GlobalizationがSlowbalizationに、ということなので、今のところ逆行しているわけではないのでしょう。そして最終的な消費者は世界中から物を買い、海外旅行をする、という傾向を今も続けています。これから観光大国を目指し、働き手も海外から来てもらおうとしている日本も、まさにその流れの中にいます。世界中の国際関係がギスギスして感じられるなかで、経済の長期展望もつい弱気に傾いてしまいますが、グローバリゼーションが止まってしまったのか、形を変えて進展しているのか、それは表現の仕方の違いなのかもしれません。あまり悲観に傾きすぎぬよう自戒しつつ。

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働き方を「改革する」ということ [市場と経済]

今年の国会では、働き方改革関連法案というのが最重要法案の一つだったと思いますが、めでたく可決されたとのこと。実際の事件の衝撃もあって、過労死をなくすための残業規制という印象ばかり強く残った感がありますが、よく見ると裁量労働制というものを認めたり、正規・非正規のギャップを縮めなさい、という項目も含まれています。

過労死を無くそう、働き過ぎをどうにかしよう、と考えることはもちろん正しいけれど、それを規制で固めるやり方は、「改革」と呼ぶには値しないと思うのです。働き方に対する考え方が大きく変わるということにはなりません。これまでのやり方に問題があったから是正する、というにすぎません。

そもそも、どうして働き過ぎてしまうのでしょうか。本当なら、体や心を病んでしまうほど働かされるようなひどい職場は、そうなる前に辞めてしまえばよいのです。やめる自由はあるのに辞めない。辞めたら損だからです。正規雇用を手放すのはもったいないのです。

働き過ぎてでも正規雇用を守ろうと思うのは、正規雇用と非正規雇用の待遇の差が大きいことの証左にほかなりません。雇う側からすれば、そうやすやすと正規雇用の地位を与えるわけにはいかないので、採用も慎重になります。だから本当に大事なのは、正規雇用と非正規雇用の差を無くすこと、ということになります。

辞める自由が実質的には無いという状況、一旦雇われたら辞めないのが正しい働き方だという考え方、これらを変えることが、「改革」であるべきです。それによって、雇用の流動性を高めることが求められていると思います。ついでに言及しておくと「裁量労働制」も、辞める自由があって初めて機能する制度だと思います。

残業規制で労働時間を短くするだけでも生産性は上がるでしょうが、それは経済全体の効率を良くするというスケールの話ではありません。もっと自由に職を選べるようになれば、必要な人材が必要なところに柔軟に動いていくようにもなるでしょう。古い産業から成長産業へ、構造の転換を促すことにもつながります。こうしたことが、生産性の向上につながるはずなのです。

雇用の流動性を高めるということは、労働市場にもっとマーケットメカニズムを働かせる、ということです。もちろん今でも雇用は市場経済のもとにあるのですが、自由が制限されていることで、かなり不完全な市場になっています。市場経済というのは「インセンティブ」によって動くメカニズムです。参加者のインセンティブをコントロールすることによって物事を動かそう、と考えるのが、市場経済を活かすということです。

これに対して「規制する」というのは、嫌でも従え、と命令するわけで、謂わば社会主義的な発想です。「辞めたら損だ」という雇用制度を残すことによって「もっと働こう」というインセンティブを放置したままでは、規制も形骸化するような気がします。そのためには残業規制よりも、正規雇用と非正規雇用の差を本当になくしていけるのか、そちらの方がはるかに重要です。働く人のインセンティブに働きかけるからです。法案ではさらっと書かれているようですが、大丈夫なんでしょうか。

労働市場を社会主義から解放せよ。・・・これが働き方改革であってほしいものです。

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チケット高額転売問題~月刊国民生活 [市場と経済]

書くべきことを貯めてしまったので、昨日・今日と連投です。

月刊「国民生活」の2月号「私たちと経済」連載第二回のテーマは「市場経済とは」。前回もそうでしたが、当たり前のように金融市場に接していると、改めて市場経済とは何か説明しようという試みは、ちょっとした挑戦です。株式の「板」を応用して市場価格の決まり方を解説してみたり、需要と供給の調節機能について説明したりしています。また、社会主義、民主主義、自由主義といったこととの関係、拡大する貧富の差の問題などにも言及しています。

自分の書いたもの以外で興味を引いたのは、「チケット高額転売は抑え込めるのか」という記事。問題になっていますよね、人気のチケットが、半ば組織的な転売で異常に高騰するという事態です。昔からダフ屋という商売は存在しますが、ネットを通じたチケット販売、ネットオークションを利用した転売など、道に立って売りつける牧歌的な時代とは比べ物にならない規模で行うことが、可能になっているわけです。その結果、イベントを提供する側が来てほしいと望む層の手に届かなくなっているのです。

悩ましいのは、チケットの転売が市場を通じた自由な経済活動であって、その結果ついている価格が、市場の実勢価格であるということです。だから、関係のない者の眼から見れば、そんなの放っておけば? という種類の問題でもあるわけです。実際転売という行為は、条例違反になることはあっても違法ではない、とこの記事でも解説されています。ただ、イベントの当事者からすれば事態は深刻ですよね。ミュージシャンであれば、本来来てほしいと思うファンの手に、チケットが届かないわけですから。

最近は、大量に買い占めて転売するような行為は詐欺罪で摘発するようになっているとのことですが、常軌を逸しているとは分かっても、どこからが犯罪なのかという線引きは、なかなか微妙な気もします。そもそも最終的に異常な高値でも買ってしまう人が大勢いるから、こういう問題が起こるわけです。本来の市場であれば、消費者は価値を正当に判断して、高すぎれば需要がしぼむはずなのですが、商品の性格上、冷静な判断を欠くというところに問題があるのでしょう。どんなに高くても欲しいと思ってしまう、というわけです。

お金を出そうと思えば出せてしまうような豊かな人が多くいることの証左でもあるのでしょうが、欲望の抑えの効かない人間が増えているのかもしれません。そしてそれを助長してしまうのは、市場機能の弱点のひとつと言えるのかもしれません。少なくとも自分は、物の価値を冷静に判断できるように努めたいものです。

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月刊「国民生活」 [市場と経済]

ブログでお知らせするのを忘れていましたが、国民生活センターの月刊ウェブマガジン「国民生活」に、一月号から「私たちと経済」という連載を始めました。(15日発行。半月経っちゃいました)
国民生活センターは「消費者問題・暮らしの問題に取り組む中核的な実施機関」とのことで、消費者からの相談を受けたり、身近な商品のテストをしたり、といった活動を行っているようです。これまで関わったことは無かったのですが、一般に「経済」というと、難し気で近寄りがたいという人が多い、なんとかもっと「経済」を身近に感じてもらえないだろうか、という問題意識から、「経済について、親しみやすい記事を」というご依頼をいただきました。私としても日ごろから、金融市場について分かりやすく語る、ということを心掛けているので、喜んで書かせていただいています。

第一回は、「経済と暮らし」などと言う漠然たるタイトルですが、ここで申し上げたかったのは、私たちの日々の生活そのものが経済なんだ、ということ。どうしても、経済も政治と同じように、「偉い人たち」の政策で動いているように思いがちなのではないでしょうか。私たちが生活している現代の経済は、市場によって動く自由な経済なのです。私たちは、仕事があるのならばどんな職業でも選ぶ自由があり、買うためのお金さえあれば好きなものを選んで買う自由があります。そうした私たちの自由な選択が、経済を動かしているのです。

そして、経済の動きである「景気」はどうすれば「見える」のか、経済を測る代表的な指標である「GDP」とはどういうものなのか、そんな話を書いています。ご関心のある方は、国民生活センターのウェブサイトをのぞいてみてください。

因みに、この月刊のウェブマガジン、1月号は、シェアエコノミーがメインの特集記事です。シェアエコノミーを巡る法的課題ですとか、フリマアプリの相談事例など、勉強になります。ドローンの法規制、不当な働きかけから身を守る心理学、なども興味深いですね。ご覧になって見ると面白いと思います。

国民生活センタ―のウェブサイト
月刊「国民生活」

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着物屋さん夜逃げ事件と先払いのリスク [市場と経済]

成人式の着物屋夜逃げ事件、全くひどい話ですね。まさに「晴れの日」に一度に大勢の被害者が発生した、という点を除けば、先に払い込んだ料金を持ち逃げされた、という単純な詐欺事件のようでもあります。

詐欺ではなくても、払い込んだ先の事業者が破産してしまえば、同じことは起こり得ます。理由はどうあれ、品物やサービスの提供を受けずに先払いする、ということはリスクを孕む行為です。一定の期間の間に何が起こるかわからない、そのリスクを払う側が引き受ける、ということなのです。ですから、早く払い込めば××%割引、というのは当たり前で、得しているわけではないのです。リスクを引き受けるだけの料金を、業者さんからいただいているわけです。

では、どのくらい割引されるのが適正なのでしょうか。どのくらい安くなれば本当に安いと言えるのでしょうか。この時まず数字として算出しやすいのは「金利」水準から求められる部分です。業者さんは、商品を提供するために資金が必要です。自己資金が十分なければ、どこかから調達しなければなりません。その調達コストは、一般の金利水準が反映されます。ですから先払いする場合は、期間に応じた金利分、最低でも割り引いてもらわなくてはなりません。ここまでは、業者さんに提供する「期間」の利益の部分です。

しかし実際にお金を貸し借りするときの金利は、期間の長さだけでは決まりません。それは前回のブログにも書いたとおりですが、要素としてもっと大きいのが「信用」を反映する部分です。今のような低金利下では特にそうでしょう。その業者さんがどのくらい信用できるのか、倒産する可能性や、今回の着物屋さんのようにドロンと消えてしまう可能性がどのくらいあるのか、ということです。

そのような可能性を数字ではじくことはとても困難なことですが、例えばの話、倒産したり夜逃げしたりする可能性が50%であるとわかっていたならば、正規の料金から金利分割り引いて、さらに半額、というふうに値付けできるかもしれません。まあ実際にはそんな簡単な話ではないので、ここでは頭の体操としてイメージしてみてください。

そこまで割り引いてもらって、実際に晴れ着を着ることが出来たら、賭けに当たってよかったね、という感じですね。半額よりももっと安くしてもらっていれば、初めてお得でした、ということになります。逆に今回のように夜逃げされてしまったら、賭けに負けて残念でした、という感じでしょうか。安かろう悪かろうだね、と言って諦めてもらう。ビジネス的にはそういう道理なわけです。

もちろん一生に一度の式典に、そんな賭けを持ち込むのはどうかと思いますが、「信用」というのはそういうこと。デパートのような小売店の値付けには、こうした「信用」のコストもかなり含まれているはずです。高いけれども、一夜にしてドロン、ということは考えられませんからね。

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雇用の「安定」と「報酬」 [市場と経済]

日本では今に始まったことではありませんが、ここ数年世界的に物価上昇率が低下して、デフレ気味になっている、経済が好調な割に、賃金が上がらない、という現象が問題視されています。特に日本ではその傾向が顕著です。

ここに貼り付けたグラフは、ある講演会で配られた日銀作成の資料。賃金動向の統計で、特別なものではありません。示されている事実も、すでに誰でも知っていることだろうと思います。

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パート雇用の賃金上昇率(左のグラフの赤線)は、順調に拡大を続けていて、特に過去1年ほどではいわゆる正規雇用(同青線)とかなりの差がついています。通常、「所定内給与」(つまり正規雇用)の方が水準が高いでしょうから、この数年で、両者の給与水準の差が縮んできているということなのでしょう。

ここでも「二重構造」とメモしてあるのが見えますが、日本では雇用市場がこのような構造になっていて、長期雇用を重視するあまり、「所定内賃金」はなかなか上がらないのだ、という説明がなされます。多分それに異論はないと思います。

これは私流の表現をするならば、「安定」のお値段が上がっている、ということだと思います。かつては空気や水のように、あるのが当たり前であった雇用の「安定」。高度成長期、慢性的な人手不足で、雇い主である企業は給与を「安定」という形で大判振る舞いしました。それが終身雇用制。雇用市場に「安定」は豊富にあったのです。

でも今は「安定」は貴重品です。雇い主は「安定」をあまり支払いたがらない。もうそれは高価なものになったしまったのです。働き手は、「安定」で支払ってほしければ、その分現金の給与を我慢しなければならなくなりました。パートの賃金の方が「所定内給与」よりも大幅に上がる、それは循環的に生じている現象というよりも、構造的に「安定」の価格が反映されて行く過程のように、私には見えます。賃金水準は等しく上がっているのだけれど、「所定内給与」のほうは、前から持っていたのに計上されていなかった「安定」の価値を、少しずつ計上しているのです。もともと「安定」を持っていないパート労働では、賃金の上昇となって現れている。パート、というか「非正規」の働き方が一般化し、また賃金上昇率がプラスになったことで、雇用の「安定」の価値が顕在化してきた、とも言えます。

「安定」をとるか、現金で支払われる「給与」をとるか。こういう選択は既に「外資系」がメジャーな雇手として跋扈している金融業界の一部では、当たり前のことになっています。年俸制で報酬の高い外資系企業に転職すれば雇用の保証はなくなる。こういうのをトレードオフと言いますよね。こうしたトレードオフは、もっと労働市場に広く反映されるべきだと思っています。安定は要らないから高い年俸が欲しい、という選択があってもよいではありませんか。そういう働き手は、企業にとってもニーズがあると思います。「ドクターX」なんていうテレビドラマがウケるところを見ると、金融以外の業界でも、安定を捨てて高い報酬を得る、という世界は広がってきているのでしょうか。

安定と報酬のトレードオフは、投資の世界で言うリターンとリスクの関係そのものです。不確実性を受け入れるからこそ、高い収益が期待できるのです。雇用が安定していることは素晴らしいことですけれど、安定も報酬も、というのは虫が良すぎます。今後雇用情勢がさらに逼迫し、安定した雇用の給与水準も上がる日が来るだろうと思います。でもそれで問題がなくなるわけではないでしょう。安定を前提としない雇用をいつまでも「非正規」と呼び、労働市場を「安定」か、そうでないかという二つに分断し続けるのは、経済の実態に合わなくなっているように見えます。

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不動産投資してもいいんだけれど… [市場と経済]

テレビを見ていて気になったので、門外漢ですが今日は不動産投資について
2~3日前、朝のNHKの番組内で「クローズアップ」として、月並みな感じではありますが、アパートに投資する個人投資家がとりあげられていました。

一人目は30代の会社員、自己資金を一切使わずにアパートを一棟買い。銀行は、彼の年収をはるかに上回る、1億58百万円を融資しています。買っている本人は「自分のお金を使わずにすむと聞いて安心した」と言っていましたが・・・、何が安心なんでしょう?
それからアメリカ・テキサスの戸建て住宅を買ったという50代会社員。すでに国内に5棟のマンションを所有し、借り入れは6億円に上っているそうです。もう完全に感覚が麻痺しているかんじですね。
最後は破綻が表面化している例。アパートに空きが出て採算が悪化し、赤字が毎月20万円でローンの返済が困難になっている、と。年収600万のサラリーマンだそうですから、そんなに赤字が出れば無理もありません。

テレビの視聴者が、しっかり最後の例まで見てくれているといいんですけれど。こんなふうに破綻する個人が、将来たくさん出てくるのでしょうね。
アパートに投資する際に、いくら利益が出るか、などというのは勧めてくる業者さんがいくらでも計算してくれます。自分でしっかり考えるべきなのは、いったい何軒のテナントが退去したら自分が破産するのか、ということなんです。

それにしても、こうした銀行の不動産ローンは、今も「個人」に対するローンなのでしょうか。「事業」に対する、いわゆるノンリコースローンであるべきなんじゃないでしょうか。異常なレベルの融資がはびこるのは、貸す側の責任が軽すぎるからでは?事業と言っても相手は一介の個人なのですから。

因みに、過去に私が不動産投資した時には、私がそこそこの預金を置いているにもかかわらず、某銀行は私の年収にも満たない額を、貸してくれようとはしませんでした。その後、資産運用のご相談を、などと言って電話してくると、いつも言い返したものです。あなた方は、私が資産運用したい時にさせようとしなかった人たちですからね、と。



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パリ祭・フランス革命・歴史の蓋然性 [市場と経済]

7月14日といえばパリ祭。フランス革命の発端となったバスチーユ襲撃事件のあった日ですね。(我らベルばら世代にはお馴染みです。)

高校のころ、世界史の先生がこんなことをおっしゃいました。
「この日パリはものすごく蒸し暑かったんです。だからみんなイライラしてた。そうじゃなければ、バスチーユを襲撃しようなんて、思わなかったかもしれないんです。そうしたら、フランス革命も起こらなかったかもしれないの。こういうのが歴史の蓋然性ね。」と。
私は「蓋然性」という聞きなれぬ言葉に少々面食らって、その時はピンと来たというよりは、ちょっとおもしろい、というぐらいに思ったという覚えがあります。

長じて資産運用にかかわるようになり、リスクとどう付き合うかという課題と日々向き合うようになって、よくこの言葉を思い出すのです。将来を予想するというのは、もっと正確には、将来「起こり得ること」を予想しているのです。そしてリスク管理するということは、その起こり得る確率を想定することなのです。

あのフランス革命でさえも、起こる前は、蓋然性に過ぎなかった。つまり何%かの確率で起こり得る事象のひとつに過ぎなかったのです。学校で習う歴史的な出来事は、あたかも必然的に起きたかのような錯覚とともに記憶されますが、実はどれも、起こらなかったかもしれないことばかり。誰かが気まぐれでとった行動が、大きく歴史を変えることもあるわけです。それを「クレオパトラの鼻」と表現することもあるのでしょうが。

日々生じている市場での出来事も、常に理由があって必然的に起きたように解説されます。しかしどの出来事も、起こらなかったかもしれないのです。起こるか起こらないかわからない、そのことを「リスク」というのですね。そしてそもそも「金融」というのは、そうした「リスクに値段をつける作業」と言っていいのではないでしょうか。

毎年7月14日が来ると、改めてこうしたことを思い返すのです。歴史の蓋然性について語ってくださった恩師は、今も御年九十三でご健在です。


似たようなことを最近書いていました。→ リスクと確率

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